米国退役軍人省は、さらに二人の元米兵に対して1960年代から70年代の沖縄に駐留しエージェント・オレンジ被曝した補償を認定していた。
まず、陸軍のトラック運転手が、1966年、那覇港でドラム缶の積み下ろしの際にダイオキシンに汚染された枯れ葉剤に触れたため、肺がんの医療補償を受けていた。もうひとりは、1970年代初期にこの島に駐留した元海兵隊員で、ホジキンリンパ腫とII型糖尿病を発症したのは、ヴェトナムの戦場から沖縄に送られた汚染された軍装備の作業に携わった結果であると、退役軍人省が裁定した。
この2件の成功した請求例が発見されるまで、沖縄におけるエージェント・オレンジ被曝で補償を勝ち取った退役兵はこれまでただひとりだけだと広く考えられてきた。その1998年裁定は、本島北部のジャングルで被曝した兵士についての事例で、2007年に報道された際に元米兵や沖縄住民を驚愕させた。
沖縄はヴェトナム戦争の前線基地の役割を果たしていたにもかかわらず、そしてこの戦争で米軍は7600万リットルの枯れ葉剤を使用したにもかかわらず、ペンタゴンは、エージェント・オレンジ輸送がこの島を経由したことはないと繰り返し否定し続けている。
那覇港で被曝した陸軍トラック運転手についての最近発覚した退役軍人省の認定は、2010年7月の決定である。補償要請書のなかで元兵士は、1965年から1966年の間に第44輸送部隊とともに港湾作業に従事したと説明している。かれの説明によれば「ヴェトナム共和国の戦争で輸送支援を行った。われわれの任務は大型輸送船からの荷下ろし作業だった。55ガロン入りの除草剤のドラム缶や、燃料、溶剤、その他の物資を扱った。われわれは積載と積み下ろしとでドラム缶を取り扱ったが、それらのドラム缶は漏れていることも多く、それで手や服を汚した」。
この元米兵の要請は、那覇港でエージェント・オレンジに被曝したという彼の主張を傍証する5人の仲間のGIたちの「友人の証言」に支えられていた。裁定に際して退役軍人省は「除草剤に被曝したことに由来する肺がんは、退役軍人省が所有する情報と証拠によって裏付けられた」と判断した。
助言を行った5人の元兵士が、エージェント・オレンジ被曝で補償を受けているかどうかは不明である。
元海兵隊員に関する事例について、退役軍人省は2008年9月に裁定していた。当局の文書によれば、この兵士は「1972年から1973年に日本の沖縄で海兵隊の倉庫作業員として服務した。彼の主張によれば、彼の所属する第3海兵師団第3海兵大隊(the 3rd Service Battalion)はヴェトナムで展開していた戦闘部隊から修理と除染のため装備を受け取っていた」。
この病気を患う元米兵の主張を、別のふたりの海兵隊員が支持した。ふたりは、ベトナム戦争も終盤にさしかかった時期、エージェント・オレンジに汚染された物資を除染のため沖縄に輸送するのはよくあることだったと発言している。退役軍人省の文書には、この被曝の起こった駐留地を特定する文言はないが、当時、第3海兵師団の本部はうるま市のキャンプ・コートニーにあった。
この裁定で退役軍人省は、「元米兵は1972年から1973年沖縄駐留中に、ヴェトナム紛争で使用された除草剤に被曝した」とみなし、ホジキンリンパ腫とII型糖尿病の健康補償を認定した。
この認定に成功したふたつの事例に加えて、退役軍人省の記録から明らかになったのは、ヴェトナム戦争期の沖縄に駐留した際にエージェント・オレンジ被曝したと主張する元米兵が、1996年から2010年の間に132人にものぼるということであった。かれらの説明は、この島で枯れ葉剤が広く貯蔵、使用されていたことを示している。1962年に予備の枯れ葉剤がキャンプ・ズケラン(現在のキャンプ・フォスター)で廃棄されたという証言、1970年代初期に嘉手納空軍基地に何百というエージェント・オレンジのドラム缶が保管されていたとの証言もある。
この132名の元兵士は米国政府がエージェント・オレンジ被曝に関係すると認定している「推定条件」の1つ以上の症状に悩まされている。
1962年から1975年のあいだにヴェトナムに足を踏み入れた全ての米兵、また朝鮮半島非武装地帯とある期間のタイで軍務に就いたものも、これら14種の症状について補償が適用される。だが、ペンタゴンが、沖縄で枯れ葉剤類の存在を示す文書がないと主張しているために、132名の要求の大半が却下された。要求のうちおよそ10パーセントについては、しかし、退役軍人省は、国防省や退役軍人省の地方支局からの追加情報を受理するまで裁定を先送りにしている。
ミネソタで沖縄のエージェント・オレンジ調査を行っている退役軍人省の職員、ミシェル・ギャッツは、この132名が氷山の一角に過ぎないのではないかと案じている。[追記:氏名のカタカナ表記をミシェル・ギャッツさんに改めました。2012年5月17日]
「ほかにも多くの元兵士が、要求を提出するために必要な書類作業の段階で黙らされている。裁定を待っている間に亡くなった人たちもいる」とガッツは語る。「沖縄でエージェント・オレンジ被曝したため病気になった兵士の本当の数は132よりもずっと多いだろう」。
いっぽう、このふたつの成功例が、沖縄でダイオキシン被害を受けたかれらの広範な補償へのとびらを開くだろうとの希望を抱く元兵士たちは、失望させられるかもしれない。退役軍人省の方針では、裁定は前例とはならず、つまり要求はそれぞれの実績によって判断され、前例によって決定されることはないからだ。
沖縄のエージェント・オレンジ問題で草の根の運動を牽引するジョー・シパラは、今日の経済的な雲行きが退役軍人省の決定の行く末に影を落としていると見ている。
「米国は何兆ドルという債務を抱えている。ヴェトナム退役兵のための完全な補償などないだろう。しかし朝鮮半島非武装地帯やタイで軍務に就いたものたちと同じように、沖縄の元米兵に対してもさらに補償を開始することを望んでいる。かれらはあの島に駐留し特定の基地で一定回数、枯れ葉剤を扱ったのだから」。
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「『ホットスポット』での公的なダイオキシン調査が求められている」
昨年4月、『ジャパン・タイムズ』は沖縄のエージェント・オレンジ被曝を証言した三人の元米兵について報道した。それ以来、30人もの元兵士が、この島の12か所以上の基地で枯れ葉剤を輸送、貯蔵、散布、埋却した経験について口を開き始めている。
これらの主張は沖縄の住民への警鐘となった、かれらは南ヴェトナムにおけるエージェント・オレンジ汚染の残した遺産、赤十字によれば3百万人が罹患し、高度にダイオキシン汚染されたホットスポットが元米軍駐留地に残っている、ということをよく知っている。
沖縄での関心の焦点は3カ所、やんばるのジャングルに囲まれた東村、名護市のキャンプ・シュワブ、そして北谷町である。
[写真解説:不毛の地。沖縄北部やんばるのジャングルで、ダイオキシンのホットスポットの可能性のある場所を検分する東村住民の安次嶺現達さん。撮影ジョン・ミッチェル]
東村
昨年、『沖縄タイムス』のインタビューに答えた米軍高官によれば、1960年から1962年のあいだに東村付近のジャングルで枯れ葉剤の試験が行われていたという。
1963年、ペンタゴンはその土地の一区画を民間地に返還したと思われるが、今日に至るまでそこは不毛の地のままである。地元住民の話によれば、生えてくる若木も根が50センチメートルくらいの深さに達すると枯れてしまうのは、土壌の基底がひどく汚染されているからではないかとのことだった。その駐屯地で雇われていた民間人が何名か、癌で亡くなっているとの噂も、心配に拍車をかけている。
最近のインタビューで、東村住民の安次嶺現達さんは、「政府にこの地域の調査をして欲しくはあるが、かれらが本当の結果を明らかにするかどうか信用できない。だから独立した機関による調査を求めています」と語った。
キャンプ・シュワブ
1970年代初期この基地に駐留した複数の元米兵が、大量のエージェント・オレンジがシュワブに貯蔵され、実戦訓練のため北部のジャングルに輸送されたり、基地内で除草のため散布されたと主張している。
当時キャンプ・シュワブ付近に住んでいた住民は、この枯れ葉剤の影響について目撃していた。沢山生えていた海草類が姿を消し、貝から黒い油性の物質が出てきたのである。さらに、貝類を食べた地元の人々が相次いで亡くなったのは、ダイオキシン汚染が原因ではなかったかと心配している。
11月24日、キャンプ・シュワブでダイオキシン調査を行うよう求める名護市民の要請は沖縄防衛局によって却下されたが、当局は元米兵の証言には信憑性がないと述べた。そこで名護市は12月、この地域における枯れ葉剤使用についてより多くの情報を得るため、地元住民の聞き取り調査を独自に行うことを発表した。
北谷町
8月、1969年、ハンビー飛行場(現在の北谷町)に何十ものエージェント・オレンジのドラム缶の埋却を目撃したという元兵士の証言で、現在人気の観光スポットに警戒を呼び起こした。
埋却した疑いのある場所の近くで、2002年に大量のドラム缶が発見されていたことが、かれの説明を裏付けていた。そのドラム缶からは、タールのような物質が漏れ、米国製のラベルが付いていたが、ダイオキシン調査がなされないまま、地元自治体によって焼却処分された。
一般住民の関心に応えて、北谷町議会は12月に、この地域のダイオキシンサンプル調査を実施するための予算を決定した。調査は、町の許可を待って、2月末に実施予定である。
翻訳 : 阿部小涼