米国が1962年沖縄でエージェント・オレンジの実験を極秘裡に実施したことが、最近公開された文書により明らかになったと、退役軍人省の職員が語った。
この実験は、規定に囚われない戦闘技術の調査を行う機密計画、アジャイル計画の下で実現したと考えられ、米軍の元高官もこれを認めている。
文書には、船舶の航海日誌、陸軍の配備命令、機密開示された政府記録などが含まれており、ミネソタ州イエロー・メディシン郡の退役軍人局員であるミシェル・ギャッツによって突き止められた。
1960年代初期に沖縄の軍港でこの枯葉剤の毒を浴びたと主張する元兵士を支援するうち、ギャッツは、この化学品が米国から海外の島まで、商船SSシャイアー・オーティス・ブランド号を使って輸送された方法を、文書の断片をたどりつなぎ合わせた。
「航海日誌によれば、この船は機密の積荷を運び、1962年4月25日、ホワイトビーチ(沖縄東海岸の海軍軍港)で武装警備の監視するなか、積み卸したことが分かっています」と、ギャッツは『ジャパン・タイムズ』紙に語った。
ブランド号は、枯葉剤を、その内容を伏せて輸送し、外国港に入港する軍艦の税関検査を免れるために、定期的に米海軍に利用された民間船だった。
沖縄に到着する3ヶ月前、ブランド号は南ヴェトナムを航行し、ペンタゴンが最初に行った枯葉剤輸送の一端を担っていた。1962年春、沖縄を出航したあと、ブランド号はパナマ運河地帯へ向った。その地で米国が1960年初頭にエージェント・オレンジの実験を実施したことは、パナマ政府も認めるところである。
近年、30人以上の元米兵たちが、かれらはみなダイオキシン被曝の症状と一致する病状に冒されているのであるが、『ジャパン・タイムズ』紙に対して、沖縄の15カ所の米軍駐留施設でエージェント・オレンジの存在について語った。このことは、長期に残留することで知られるダイオキシンに、沖縄県は汚染されたままではないかとの危機感を広めることにつながった。
米国政府は繰り返し、病に苦しむこれらの元米兵への援助を拒絶し、エージェント・オレンジやその種の除草剤は沖縄に存在しなかったと主張してきた。しかし、米国政府はいまだに、1960年代に実施された枯葉剤の実験に関する記録文書の大部分を開示拒否したままである。
ギャッツは、ブランド号の運んだ積荷はこれらの実験において使用されたと考えている。すなわちアジャイル作戦、この化学品が、敵兵からジャングルや収穫を剥奪することが可能かどうか見極めることを任務としていた作戦であった。
この計画に関して、公開され入手可能な文書によれば、1962年、軍は南ヴェトナムにおける初期の枯葉剤の決定的とは言えない成果に徐々に苛立ちを見せ、陸軍の化学・生物学研究を行う未確認のグループに対して「最新の除草剤散布システムの開発」を命じた。
ペンシルヴェニアの陸軍大学に情報自由法に基づいて申請を提出した後、ギャッツはこの部隊を正確に探り当てることが出来た。米陸軍第267化学軍務小隊である。
「第267小隊は、かつてアラスカに駐屯していたが、1962年には不可解なことだが活動を停止し、その後、沖縄に移転となった。その島の熱帯植生で枯葉剤の実験を行うために、移駐したのだ」とギャッツは言う。
第267化学軍務小隊が「レッドハット作戦」、日本に施政権返還される前の沖縄から、1万2000トンの米軍の生物化学兵器を移送した作戦にも関与していることは、元米兵の証言や、2009年の退役軍人省の枯葉剤裁定で指摘されている。
昨年9月、退役した元米軍高官の話が『沖縄タイムス』でヘッドラインを飾った。彼は軍隊の沈黙の壁を破って、ペンタゴンが、この島の北部、国頭村と東村付近のジャングルで枯葉剤の実験を行ったことを証言したのである。
新聞のインタビューでこの高官は、名前を明かさずに、沖縄はヴェトナムと植生が似ているうえに、潜在的な危険から他の場所では制限されるような厳しい安全規制がないので、この種の実験地として選ばれたのだと語った。
ギャッツがつなぎ合わせた一連の出来事について読み終えたこの退役高官は、匿名のままにするよう求めつつ、彼女の推測が正しいことを認めた。しかし彼は、彼女の発見が明るみになることで仕事を奪われるのではないかと、今はギャッツを心配していると付け加えた。
ギャッツは、結果がどうなろうと真実を追究する決意を語った。
「これらの文書は、決定的な証拠なのです。国防省はもはや沖縄に枯葉剤が存在しなかったなどと否定し続けることは出来ません。もうそろそろ、潔く認めて、病に苦しむ彼ら元米兵たちに、相応しい正義を行うべきときなのです」。
この実験は、規定に囚われない戦闘技術の調査を行う機密計画、アジャイル計画の下で実現したと考えられ、米軍の元高官もこれを認めている。
文書には、船舶の航海日誌、陸軍の配備命令、機密開示された政府記録などが含まれており、ミネソタ州イエロー・メディシン郡の退役軍人局員であるミシェル・ギャッツによって突き止められた。
1960年代初期に沖縄の軍港でこの枯葉剤の毒を浴びたと主張する元兵士を支援するうち、ギャッツは、この化学品が米国から海外の島まで、商船SSシャイアー・オーティス・ブランド号を使って輸送された方法を、文書の断片をたどりつなぎ合わせた。
「航海日誌によれば、この船は機密の積荷を運び、1962年4月25日、ホワイトビーチ(沖縄東海岸の海軍軍港)で武装警備の監視するなか、積み卸したことが分かっています」と、ギャッツは『ジャパン・タイムズ』紙に語った。
ブランド号は、枯葉剤を、その内容を伏せて輸送し、外国港に入港する軍艦の税関検査を免れるために、定期的に米海軍に利用された民間船だった。
沖縄に到着する3ヶ月前、ブランド号は南ヴェトナムを航行し、ペンタゴンが最初に行った枯葉剤輸送の一端を担っていた。1962年春、沖縄を出航したあと、ブランド号はパナマ運河地帯へ向った。その地で米国が1960年初頭にエージェント・オレンジの実験を実施したことは、パナマ政府も認めるところである。
近年、30人以上の元米兵たちが、かれらはみなダイオキシン被曝の症状と一致する病状に冒されているのであるが、『ジャパン・タイムズ』紙に対して、沖縄の15カ所の米軍駐留施設でエージェント・オレンジの存在について語った。このことは、長期に残留することで知られるダイオキシンに、沖縄県は汚染されたままではないかとの危機感を広めることにつながった。
米国政府は繰り返し、病に苦しむこれらの元米兵への援助を拒絶し、エージェント・オレンジやその種の除草剤は沖縄に存在しなかったと主張してきた。しかし、米国政府はいまだに、1960年代に実施された枯葉剤の実験に関する記録文書の大部分を開示拒否したままである。
ギャッツは、ブランド号の運んだ積荷はこれらの実験において使用されたと考えている。すなわちアジャイル作戦、この化学品が、敵兵からジャングルや収穫を剥奪することが可能かどうか見極めることを任務としていた作戦であった。
この計画に関して、公開され入手可能な文書によれば、1962年、軍は南ヴェトナムにおける初期の枯葉剤の決定的とは言えない成果に徐々に苛立ちを見せ、陸軍の化学・生物学研究を行う未確認のグループに対して「最新の除草剤散布システムの開発」を命じた。
ペンシルヴェニアの陸軍大学に情報自由法に基づいて申請を提出した後、ギャッツはこの部隊を正確に探り当てることが出来た。米陸軍第267化学軍務小隊である。
「第267小隊は、かつてアラスカに駐屯していたが、1962年には不可解なことだが活動を停止し、その後、沖縄に移転となった。その島の熱帯植生で枯葉剤の実験を行うために、移駐したのだ」とギャッツは言う。
第267化学軍務小隊が「レッドハット作戦」、日本に施政権返還される前の沖縄から、1万2000トンの米軍の生物化学兵器を移送した作戦にも関与していることは、元米兵の証言や、2009年の退役軍人省の枯葉剤裁定で指摘されている。
昨年9月、退役した元米軍高官の話が『沖縄タイムス』でヘッドラインを飾った。彼は軍隊の沈黙の壁を破って、ペンタゴンが、この島の北部、国頭村と東村付近のジャングルで枯葉剤の実験を行ったことを証言したのである。
新聞のインタビューでこの高官は、名前を明かさずに、沖縄はヴェトナムと植生が似ているうえに、潜在的な危険から他の場所では制限されるような厳しい安全規制がないので、この種の実験地として選ばれたのだと語った。
ギャッツがつなぎ合わせた一連の出来事について読み終えたこの退役高官は、匿名のままにするよう求めつつ、彼女の推測が正しいことを認めた。しかし彼は、彼女の発見が明るみになることで仕事を奪われるのではないかと、今はギャッツを心配していると付け加えた。
ギャッツは、結果がどうなろうと真実を追究する決意を語った。
「これらの文書は、決定的な証拠なのです。国防省はもはや沖縄に枯葉剤が存在しなかったなどと否定し続けることは出来ません。もうそろそろ、潔く認めて、病に苦しむ彼ら元米兵たちに、相応しい正義を行うべきときなのです」。
翻訳 : 阿部小涼