米海兵隊が沖縄の普天間飛行場で大量のエージェント・オレンジの貯蔵を埋却し、このため基地で管理部門の長を勤めた人物が被曝し、付近住民や基地の土地を汚染した可能性もあることが、ジャパン・タイムズによる元米兵のインタビューから判った。
ドラム缶は明らかにヴェトナム戦争終結期に沖縄で廃棄された---ダイオキシンを含んだ枯葉剤を健康上の理由で米国政府が禁止したころだが、ペンタゴンは安全に処理する要求を無視した後、宜野湾市の駐留地に埋却されたと、1970年代と80年代に勤務した元米兵が語った。
普天間閉鎖は、東京とワシントンが米軍再編のため格闘してきた苦い16年間の中心を占めているが、これらの疑いは、最終的に閉鎖された後ですら恐怖を引き起こすだろう。基地の下の土壌は酷い汚染のために民間共用となるまでに何十年も要する、同様のことは南ヴェトナムでエージェント・オレンジを保管していた駐留地で起こっている。
この詳言を行った元米兵のひとりは、クリス・ロバーツ中佐(57)である。彼は米海兵隊普天間飛行場で、維持管理作業の全般を担当していた。
1981年夏、施設から流出した下水中に「容認しがたいほど高い値」の化学物質を検知したと上官から告げられた後、彼と建設部門の隊員は滑走路の末端近くを掘削したと、ロバーツは言う。
「私たちは並べて埋まっていた100本以上のドラム缶を掘り起こした。錆びて漏れていたそのドラム缶のいくつかは、周りにオレンジの印が付いていた」。現在、ニューハンプシャー州議員を務めるロバーツが、ジャパン・タイムズの最近のインタビューで語った。
エージェント・オレンジ---保管容器となったドラム缶の周囲に描かれた縞模様の色から名付けられたその物質の危険性は、1980年代初頭になってもまだ、広く周知されていなかった。だがロバーツは、上官が他の者たちの現場立ち入りを禁止にし、沖縄の作業員たちの手で秘密裏にトラックに積み込み、知らない場所へ移送したことから、疑念が起こったと言う。ドラム缶が撤去された後まもなく、台風が来て埋却場所は水であふれた。
「水の上にはドラム缶から漏れ出した化学物質の膜が張っていた。部下たちと私はその中に降りていき、苦労して汚染された水を基地外に流し出したのです」とロバーツは語る。
ドラム缶の内容物に接したため、かつてはマラソンのトップランナーだったロバーツは、心臓疾患と前立腺癌を患い、肺がんの前駆細胞も見られる。彼の医師はエージェント・オレンジ被曝の症状だと指摘している。
自分の部下たちも同様に汚染されたのではと気になったロバーツは、米海兵隊と退役軍人省に対して、かれらと連絡を取るようにと何度も要請したが、無視されたと言う。
昨年1年間の間に、30人以上の元米兵たちがジャパン・タイムズに対して、米軍の主要な補給地であったヴェトナム戦期の沖縄におけるエージェント・オレンジ使用について語ってきた。なかには1970年代半ばまでの期間のエージェント・オレンジ使用について語った退役兵がいたが、1980年代という最近にその存在が疑われる詳言は、これが初めてのことである。
ペンタゴンは沖縄における枯葉剤の存在を一切否定している。しかし退役軍人省は、この島で化学物質によって発症した元兵士の少なくとも3名に対して補償を認定してきた。
3人のうち名前を公表したカルロス・ギャレイは、1975年普天間の指令維持部隊(Headquarters and Maintenance Squadron)に配属されていた。ギャレイはヴェトナム戦の後に駐留地に残されていた12本のエージェント・オレンジのドラム缶を目撃したと証言している。
「そのうえ、他の部隊も残っていた保管分を廃棄するため自分たちのところへ送ってきた。そのため、国防省と海兵隊司令部に連絡をしたが、回答がなかった。1976年、私が任地を去るとき、ドラム缶はまだその場所に残されたままだった」と彼は語った。
ギャレイの説明とロバーツが発見したドラム缶の話は、沖縄に公式には存在しないと言われるエージェント・オレンジ貯蔵を、いかに撤去するべきか、高官の間に見られたであろう混乱を物語る。
1961年から1971年の間、米軍は、敵の農産物の収穫や隠れ家となるジャングルを一掃する目的で、7600万リットルの除草剤を東南アジア一帯に散布した。しかし、出生異常や深刻な病状とこの化学物質との関連が研究によって明らかにされた後、使用を禁止した。
1972年、米国は南ヴェトナムに貯蔵されていたものを北太平洋のジョンストン島に移送した。その後の処理をめぐる5年間に及ぶ論議の後に、最終的に1977年、海上で焼却処分された。
南ヴェトナムでエージェント・オレンジの危険性を研究する科学者たちは、極めて高い毒性を持つダイオキシンは雨水に溶けないため、土壌中に残留し、数十年にわたって人々に害をもたらすことを明らかにしてきた。南ヴェトナムでは今日なお、米軍がエージェント・オレンジ貯蔵に使用した地区に、20箇所以上のダイオキシン危険区域がある。
普天間基地の付近は、住宅が近接し、10校の小学校を含む20校の学校があり、地元の人々は「世界で最も危険な軍事基地」と呼ぶ。学校は、ドラム缶が発見され汚染された水が廃棄された場所の付近にもある。
2003年から2010年に宜野湾市長を務めた伊波洋一は、米海兵隊は流出があった1981年に宜野湾市に対して通報を怠った、基地の地下は洞穴や湧水も多く、一帯はまだダイオキシン汚染が残っているのではないかとの懸念を、ジャパン・タイムズに語った。
「もしダイオキシンがまだ土壌中にあれば、サンプル調査からその存在を確認出来る。だが日本政府は在沖米軍の提供区域内でそのような調査の実施を許可しないだろう」と伊波は言う。
米軍は、日本の法制度の下で、民間に返還された軍用地跡地の浄化について責任を負わない。沖縄の駐留地を汚染したという好ましからざる記録を持っている。
1995年、恩納通信施設が民間利用に返されたが、水銀や毒性の高いPCBなどの汚染物質のため、いまだ再開発されないままである。1999年には、嘉手納弾薬庫の一部閉鎖跡地から、危険な水準の鉛と発がん性の六価クロムが土壌から発見された。
現在、北谷町の人気の観光地区となっている場所に、1969年に数百ものエージェント・オレンジのドラム缶を埋却したことを元米兵が昨年の夏に詳言し、地元住民を驚かせた。
軍がドラム缶を埋却した理由について、退役軍人省の報復を怖れて名前を明かしたくないという、ある米兵によれば、「適切な処置を行うために国に移送するよりも埋めてしまったほうが安上がりだからだ。軍がいつも沖縄でやってきたことだ」と語った。
翻訳 : 阿部小涼